量子もつれ


量子もつれ(Quantum Entanglement)」は、アインシュタインが
「不気味な遠隔作用(spooky action at a distance)」と呼んで嫌った、
量子力学の中で最も不思議で、かつ現代の量子情報科学の基盤となっている現象です。

量子もつれとは何か?(数式による定義)

2つの粒子(例えば光子や電子)が「量子もつれ」の状態にあるとき、
全体の系としては確定した状態にあるにもかかわらず、
それぞれの粒子単独の状態は完全に未確定(確率的)になります。
そして、一方の粒子を観測した瞬間に、どれだけ離れていても
(たとえ宇宙の端と端であっても)、
もう一方の粒子の状態が瞬時に決定します。

これを、量子力学の標準的な表記法である
ブラケット記法で表してみましょう。

状態の重ね合わせ(単一の量子)

1つの量子ビット(スピン)の上向きを ∣↑⟩、下向きを ∣↓⟩ とします。
量子は観測されるまで、これらが
「重ね合わせ」になった状態をとることができます。

∣ψ⟩=α∣↑⟩+β∣↓⟩

(ここで、α,β は複素数で、確率の総和が 1 になるよう
∣α∣2+∣β∣2=1 を満たします)

もつれ状態(Bell状態)の数式

最も有名な量子もつれ状態の一つが、以下の「Bell状態(最大もつれ状態)」です。
2つの粒子(粒子Aと粒子B)がこの状態にあるとします。

∣Φ+⟩=2​1​(∣↑⟩A​∣↑⟩B​+∣↓⟩A​∣↓⟩B​)

この数式は非常に重要な性質を示しています。

  1. 測定前の未確定性:
    粒子Aだけを見ても、上向きか下向きかは五分五分
    (確率は ∣2​1​∣2=21​)で、完全にランダムです。
    粒子Bも同様です。
  2. 完全な相関:
    もし粒子Aを測定して「上向き ∣↑⟩A​」が得られたとします。
    その瞬間、全体の波の関数は ∣↑⟩A​∣↑⟩B​ に収縮します。
    つまり、粒子Bを測定すると100%の確率で「
    上向き ∣↑⟩B​」になります(下向きで揃う場合も同様)。
「もつれていない状態(セパラブル状態)」との違い

もつれていない状態は、2つの独立した状態の掛け算(直積)
として以下のように分離して書くことができます。

∣ψ⟩sep​=∣↑⟩A​⊗(2​1​∣↑⟩B​+2​1​∣↓⟩B​)

Bell状態 ∣Φ+⟩ は、どのように数学的工夫をしても
∣何か⟩A​⊗∣何か⟩B​ という形に
因数分解(分離)することができません
これが「もつれている」ことの数学的な定義です。

アインシュタインの反論
(EPRパラドックス)と「隠れた変数」

1935年、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの3人(EPR)は、
この量子もつれの性質に対して異を唱えました。

EPRの主張:
「Aを測定した瞬間に、何光年も離れたBの状態が瞬時に決まるなんて、
光速を超えた情報の伝達を禁じる相対性理論に反する(局所性の崩壊)。
実際には、量子力学の確率なんてものは嘘で、
粒子が生まれた瞬間から、あらかじめ『上・上』か『下・下』になるか
という秘密の運命(隠れた変数)が決まっていたはずだ。
量子力学はまだ不完全な理論だ」


これは、「局所実在論(Local Realism)」と呼ばれる、
私たちの日常の直感(月は見上げていなくてもそこに存在するし、
遠くの出来事は瞬時に影響しない)に沿った考え方です。

実際の実験:どうやって「隠れた変数」の嘘を暴いたか?

アインシュタインの「あらかじめ決まっていた」という主張と、
量子力学の「測定するまで決まっていなかった」という主張は、
長らく哲学的な論争にとどまっていました。
なぜなら、同じ方向(縦方向のスピンなど)で測る限り、
どちらの理論でも結果が「一致する」という結論は変わらないからです。

しかし1964年、ジョン・ベルが
「測定する角度をズラして実験すれば、両者の違いを数式で証明できる」
ことを発見しました(ベルの不等式)。

ベルの不等式(CHSH不等式)の数式

2人の実験者(アリスとボブ)が、それぞれ異なる2つの角度
(アリスは a,a′、ボブは b,b′)で、もつれた粒子のスピンを測定します。
測定結果はそれぞれ +1(上向き)か −1(下向き)のどちらかです。

もしアインシュタインの言う通り
「隠れた変数(あらかじめ結果が決まっている世界)」が正しいなら、
何度実験を繰り返しても、それぞれの測定値の相関(期待値 E)の組み合わせは、
必ず以下の不等式を満たさなければなりません。

S=∣E(a,b)−E(a,b′)+E(a′,b)+E(a′,b′)∣≤2

これがCHSH不等式(ベルの不等式の一種)です。
「古典的な物理学(実在論)が正しければ、この値 S は絶対に 2 を超えない」
という限界を示しています。

しかし、量子力学の数式(Bell状態)を使って、巧みに選んだ特定の角度
(例:互いの測定角を 22.5∘ ズラすなど)でこの期待値を計算すると、
理論上、限界を突破して以下の値になります。

Squantum​=22​≈2.828

これにより、
「実際に実験をして、値が 2 を超えれば、アインシュタインが間違っていた
(世界は測定前には決まっていない)と証明できる」
という舞台が整いました。

歴史的な検証実験

この不等式を検証するため、多くの物理学者が実際に実験を行いました。
2022年のノーベル物理学賞は、この実験に決定的な貢献をした3氏
(アスペ、クラウザー、ツァイリンガー)に贈られています。

① アラン・アスペの実験(1982年)

アスペらは、カルシウム原子から放出される
「量子もつれ状態にある2つの光子(偏光)」を利用しました。
光子が飛行している最中(わずか数十ナノ秒の間)に、
測定装置の偏光フィルターの角度を高速かつランダムに切り替える実験を行いました。
これにより、「Aの装置の設定が、光速以下のスピードでBの装置に伝わる」
という抜け穴(ロジックの隙)を塞ぎました。

結果: 不等式の上限 2 を大きく超え、量子力学の予測する 2.82
に極めて近い値を叩き出しました。

② ループホール・フリー(抜け穴のない)実験(2015年)

初期の実験には「測定器の検出効率が低いため、
測定漏れの中に隠れた変数が潜んでいるのではないか(検出の抜け穴)」などの批判がありました。
しかし2015年、オランダのデルフト工科大学などのグループが、
1.3km離れた2つの電子のスピンを用いて、
すべての主要な「抜け穴(ループホール)」を同時に排除した完璧な実験に成功しました。

これによって、
「自然界は、局所実在論(アインシュタインの主張)を完全に否定している」
ことが決定的に証明されました。

まとめ:何が起きているのか?

量子もつれにおける「瞬時の状態変化」は、
情報を光速を超えて伝える手段(通信)には使えません
なぜなら、アリスの手元で得られる結果自体は常に50%の確率で完全なランダムであり、
ボブの結果と答え合わせ(これには光速以下の通常の通信が必要)をするまでは、
何のデータも読み取れないからです。
したがって、相対性理論とは矛盾しません。

しかし、数式と実験が示したのは、

現在この性質は、絶対に盗聴できない量子暗号や、
超高速計算を行う量子コンピュータのコア技術として実用化が進んでいます。

量子もつれを地上(光ファイバーや大気圏内)で長距離伝送しようとすると、
光の吸収や散乱によって信号が指数関数的に減衰してしまいます。
この限界を突破するために、宇宙空間(真空)を利用して
圧倒的な長距離間で量子もつれを届ける技術が「量子通信衛星」です。

2016年に中国が打ち上げた量子科学実験衛星「墨子号(Micius)」の実験をベースに、
宇宙規模の量子もつれ実験のメカニズムを、詳しく解説します。

衛星実験の基本セットアップと
「光子の偏光」

衛星を使った実験では、一般的に「光子の偏光(振動方向)」
を量子ビットとして利用します。

  • 水平偏光(Horizontal)を $\ket{H}$
  • 垂直偏光(Vertical)を $\ket{V}$

と定義します。
衛星に搭載された特殊な結晶(BBO結晶など)にレーザーを照射し、
自発的パラメトリック下方変換(SPDC)という現象を起こすことで、
以下のBell状態(最大もつれ状態)にある光子ペアを生成します。

$$\ket{\Psi^-} = \frac{1}{\sqrt{2}} ( \ket{H}_A\ket{V}_B - \ket{V}_A\ket{H}_B )$$

この状態は、アリス(地上局A)に届く光子とボブ(地上局B)に届く光子の偏光が
常に直交する(一方が $H$ なら他方は必ず $V$ になる)という強い相関を持っています。

衛星は、このもつれた光子ペアの一方を中国の「デリンハ局(地上局A)」へ、
もう一方を「麗江局(地上局B)」へと、
約1,200km離れた2つの地上局に向けて同時に発射しました。

宇宙空間の移動に伴う数式変化
(座標系の回転と位相のズレ)

衛星から地上へ光子を届ける際、数式上、
そのまま $\ket{\Psi^-}$ が維持されるわけではありません。
衛星の移動や大気の影響を考慮する必要があります。

① 幾何学的な座標の回転(偏光の回転)

衛星と2つの地上局の位置関係は、衛星の飛行に伴って刻一刻と変化します。
地上局から見た「水平・垂直」の基準軸が、
衛星から見た基準軸に対して角度 $\theta_A, \theta_B$ だけ傾いている場合、
地上に届いた状態は数学的に以下の回転行列(ユニタリ変換 $U$)を受けます。

$$U(\theta) = \begin{pmatrix} \cos\theta & -\sin\theta \\ \sin\theta & \cos\theta \end{pmatrix}$$

これにより、地上局で観測される状態は以下のように変化します。

$$\ket{\Psi_{\text{ground}}} = (U(\theta_A) \otimes U(\theta_B)) \ket{\Psi^-}$$

実験では、衛星のGPSデータと地上からのレーザー追尾によって傾き
$\theta_A, \theta_B$ をリアルタイムに計算し、
地上側の光学素子(波長板)でこの回転を打ち消す(逆変換 $U^\dagger$ をかける)ことで、
元の $\ket{\Psi^-}$ を復元します。

② 大気による偏光の維持(真空のメリット)

光ファイバーの中を光子が通る場合、ガラスの応力などによって
偏光がランダムに変化(デフェージング)し、数式的には以下のように
「混ざり合った状態(密度行列 $\rho$)」へと劣化します。

$$\rho = (1-\epsilon)\ket{\Psi^-}\bra{\Psi^-} + \epsilon \frac{I}{4}$$

($\epsilon$ はエラー率、$I$ は単位行列)

しかし、衛星実験の経路の 99% 以上は「真空の宇宙空間」です。
真空は偏光を乱さない(複屈折がない)ため、
1,200kmという超長距離であっても、$\epsilon \approx 0$、
つまり純粋な量子もつれ状態($\ket{\Psi^-}$)を
ほぼ無傷で地上に届けることができるのです。
これが衛星を使う最大のメリットです。

ベルの不等式(CHSH不等式)による数式実証

1,200km離れた地上局AとBに光子が到達したとき、
本当に量子もつれが維持されているかを証明するため、
地上局でベルの不等式(CHSH不等式)の検証を行います。

アリスとボブは、それぞれ偏光フィルターの角度を
ランダムに切り替えて測定します。

  • アリスが選ぶ角度: $a_1 = 0^\circ, a_2 = 45^\circ$
  • ボブが選ぶ角度: $b_1 = 22.5^\circ, b_2 = 67.5^\circ$

それぞれの角度の組み合わせに対する、
測定結果($1$ または $-1$)の相関(期待値 $E(a, b)$)を計算します。
純粋な $\ket{\Psi^-}$ 状態に対して、
量子力学の数式から導かれる期待値は以下のようになります。

$$E(a, b) = -\cos(2(a - b))$$

これを選択した角度に代入すると、

  • $E(a_1, b_1) = -\cos(2(0^\circ - 22.5^\circ)) = -\cos(-45^\circ) = -\frac{1}{\sqrt{2}}$
  • $E(a_1, b_2) = -\cos(2(0^\circ - 67.5^\circ)) = -\cos(-135^\circ) = \frac{1}{\sqrt{2}}$
  • $E(a_2, b_1) = -\cos(2(45^\circ - 22.5^\circ)) = -\cos(45^\circ) = -\frac{1}{\sqrt{2}}$
  • $E(a_2, b_2) = -\cos(2(45^\circ - 67.5^\circ)) = -\cos(-45^\circ) = -\frac{1}{\sqrt{2}}$

これらをCHSH不等式の式 $S$ に代入します。

$$S = |E(a_1, b_1) - E(a_1, b_2) + E(a_2, b_1) + E(a_2, b_2)|$$

$$S = |-\frac{1}{\sqrt{2}} - \frac{1}{\sqrt{2}} - \frac{1}{\sqrt{2}} - \frac{1}{\sqrt{2}}| = |-2\sqrt{2}| = 2\sqrt{2} \approx 2.828$$

実際の実験結果

隠れた変数説(古典物理学)が正しければ $S \le 2$ でなければなりませんが、
墨子号の実験によって得られた実測値は $S = 2.56 \pm 0.07$ でした。

これは 2 を明確に超えており、
「1,200km離れても、量子もつれは一切崩壊せず瞬時に相関している」
ことが数式通りに実証された瞬間でした。

衛星実験における最大の課題:
量子誤り率(QBER)

数式上は完璧に見えても、実際の実験では
地上の望遠鏡が拾ってしまう「背景光(お月様や街の明かり)」や
「検出器のノイズ(ダークカウント)」が混入します。
これを量子誤り率(QBER: Quantum Bit Error Rate)として計算します。

QBER($e$)は、大まかに以下の数式で表されます。

$$e \approx \frac{N_{\text{noise}}}{N_{\text{signal}} + N_{\text{noise}}}$$

  • $N_{\text{signal}}$(届いた光子の数):
    1,200kmの間に大気や望遠鏡の倍率によるロスがあるため、
    衛星から毎秒数百万個送っても、地上でペアとして同時検出(シグナル)
    できるのは毎秒数個程度にまで激減します。
  • $N_{\text{noise}}$(ノイズ数):
    夜間に実験を行う、あるいは特定の波長だけを通す極めて狭い超高性能フィルター
    (バンドパスフィルター)を用いることで、この値を極限まで抑え込みます。

墨子号の実験では、このノイズ制御技術により、
QBERを約 4.2% という非常に低い値に抑えることに成功しました。
一般的に量子鍵配送(安全な通信)を行うには
QBER が 11%以下 である必要があるため、
この実験値は「宇宙経由の量子暗号通信が十分に実用可能である」
ことを数学的・技術的に証明するものとなりました。

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